「聖火が燃えるまで」 原田與作 元札幌市長の哲学と執念(後編)

大好き札幌
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前回に引き続き、ゴールデンウィークに読んだ、原田 與作(はらだ よさく)元札幌市長の著作について、その内容を少しご紹介したいと思います。

昭和51年、市長を退任されてから約5年後に出版された貴重なご著書です。
アマゾンで検索してもタイトル以外に表紙も情報も何も表示されないほど、手に入り難い貴重な本です。

「聖火が燃えるまで」 原田與作 元札幌市長の哲学と執念(前編)
ゴールデンウィーク!たまには少し読書でもということで、いろいろな本を読んで過ごしました。その中の一冊が、原田 與作(はらだ よさく)元札幌市長の著作。昭和51年、市長を退任されてから約5年後に出版された貴重なご著書です。アマゾンで検索して...

今は札幌市民でも原田市長のことをご存じの方はあまり居られなくなったかもしれませんが、1972年の冬季札幌オリンピックの招致を実現させた市長さんです。
ご著書の後半は「成果が燃えるまで」と題し、この世紀の大事業であるオリンピック招致について割かれています。
当時の札幌の事情やオリンピック誘致への期待や意義、葛藤など貴重な情報に触れることができましたので、前後編に分けてご紹介しております。
今回はその後編です。

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(後編)再立候補から招致へ

再立候補へ

1968(昭和43)年冬季オリンピックの開催地レースに敗れた昭和39年、市議会からは結果的に否決されたものの不信任案まで提出された原田市長は、次回1972(昭和47)年に向けて再立候補するか葛藤の極みにいた…。

などということはなくて、市長ご自身は早々に再立候補を決意していたようです。
各方面の声や報道の論調からは、招致活動に対する批判はあっても、オリンピック招致を目指したことに対する批判はほとんどみられない。
再立候補を期待しているかのような声も多かった。

悩んでいたのは、市長自身が再立候補宣言をするか、再立候補の議案を市議会に提出し、その議決を持って進めるかということだけでした。
同じ昭和39年に開催された東京オリンピックの大成功もあって、「次は札幌」という雰囲気が各方面に高まってもいたことも市長の意思を後押しします。

そして東京オリンピック終了後、IOCのブランデージ会長一行が札幌に視察に訪れるという話が急遽持ち上がります。
これに対し、反対する議会会派からは「赤旗を立てて千歳空港で反対のお出迎えをする」という動きもありました。
しかし、10月25日の来札当日、千歳空港で一行をお出迎えしたのは、「赤旗」ではなく季節外れの「真っ白な大雪」。
IOCの一行は驚きそして歓喜に包まれました。
その様子を見た原田市長は歓迎会の席上、「この雪は皆さまを歓迎し、札幌の印象を時う段に強くしてもらうために私が降らせた!」と挨拶したそうです。

その後、市長から議会に再立候補の議案が提出され、12月23日に社会党・共産党を除く賛成多数(全会一致決議ではない)で可決されました。
この議決書は前回と異なり開始年次を限定しないものとなっており、市長に判断が委ねられる形となっていました。
原田市長はこの時すでに、1972年の招致活動に再び敗れても、76年大会に立候補すると即座に宣言し、市長を辞任する覚悟だったと綴っています。
翌1965(昭和40)年には政府や国会議員、中央財界、スポーツ関係者など980名からなる「オリンピック冬季大会札幌招致委員会」が結成され、市民レベルの協力団体の活動も活発化します。

そうして、開催決定となるIOC総会が1966(昭和41)年4月ローマと決定。
市長以下20数名の招致団が”決戦”のローマへと飛び立ちました。

”決戦”のIOC総会

対立候補は以下の3都市。
バンフ(カナダ)
ラハチ(フィンランド)
ソルトレイク(アメリカ)

そのうち強敵とされたのが、前回大会で逆転敗退したバンフ。
しかしカナダは同じ総会で開催地が決定される1972年の夏季オリンピックにもモントリオールが有力視されており、連続開催への疑問視もあることから、カナダ勢同士の夏冬を超えた「同士討ち」の様相も呈していました。
そんな中、日本側としては夏季にモントリオールを押すなどの駆け引きもなされたようです。

招致選考のポイントの一つとなるのが、世界中にいるIOC委員への働き掛け。
現在は禁止されていますが、当時はIOC委員への直接的な働き掛けが当然でありました。
重点地域を①アジア中近東、②中南米、③アフリカ、④ソ連圏に絞り、招致委員会の有力者が2月から3月にかけて駆け回りました。

もう一つのポイントが、総会でのプレゼンテーション。
原田市長と岩田JOC委員がプレゼンテーターとなり、札幌をアピールする映画を上映するなどしたあと、1940年に一度オリンピック開催が東京と札幌に決定したが戦争により幻の大会となったことに触れ、30分のプレゼンを手際よく終了させました。

そして、いよいよ開催地の投票。
まず夏季の候補地から発表されます。
ここでモントリオールが選ばれると同じカナダのバンフの可能性が低くなり、札幌のチャンスが一気に高まります。
スピーカーからブランデージ会長の声が…、
「ミュンヘンとモントリオールが接戦の末、2回目の投票でミュンヘンに決定しました。」
札幌としては最悪の事態。ただでさえ有力候補だったバンフに同情票まで加わることが予想されます。

引き続いて、冬季の投票に移ります。
IOC委員が会議室に入り、候補地関係者はロビーで待機です。
どれだけ時間が過ぎたのか、関係者にとっては「実に長い時間」が経過したころ、各候補地の代表者が会議室に招き入れられました。
まず、報道関係者が入り、引き続いて各代表が会場に呼び入れられました。

この時、原田市長は「勝った」と確信したそうです。
なぜならプレゼンテーションはアルファベット順に行われ札幌は最後でしたが、入場宣告には札幌が一番最初に呼び入れられたから。

そして、結果は…。
ブランデージ会長が立ち上がり、「1972年オリンピック冬季大会の開催地は…、」
一息入れてから「札幌に決定した!」

原田市長の読みが見事に的中し、長年の思いと努力、そして地元の期待と重圧などなど全てが結実した瞬間でした。

市長は招致活動を振り返り、成功要因を次のように分析しています。
①東京オリンピックの成功による日本への信頼
②1940年に一度内定したこと
③あらかじめ地固めをして基礎票が確保できていたこと
④競争相手には何かしら問題点があったが、札幌にはなかったこと
⑤プレゼンテーションが簡潔明瞭だったこと
⑥総会に出席できなくなった高石IOC委員が切々たる手紙と生の訴えを録音して、それらが出席委員の胸臆に触れたこと
⑦札幌の招致運動が終始正々堂々と本筋から迫り、術策や虚偽を用いなかったこと

2030年の再びの招致を目指す現在の札幌市や関係者にとって大変貴重な振り返りでありましょう。

招致決定後の札幌

かくして札幌オリンピック招致を勝ち取るという歴史的な偉業を成し遂げた原田市長でしたが、肉体的にも精神的にも疲労が限界に達していました。
開催決定の翌年昭和42年の統一地方選挙で三選を果たしたものの、その後持病が再発するなど入退院を余儀なくされ、闘病生活が長くなります。
そして、3期目を全うしたところで昭和46年の統一地方選挙では後進を板垣武四助役(当時)に譲り、翌47年のオリンピック開会式では開催地市長ではないお立場でした。
どのようなお気持ちでこの歴史的な開会式と大会をご覧になり、またオリンピックに託したその後の札幌の発展をどのような思いで見つめておられたのでしょう。

前編にも記しましたが、オリンピック招致を目指そうとした当初昭和36年初頭に試算した開催経費は、約51億3千万円
うち市の負担区分が約12億2千万というものでした。

しかし実際に動き出すと、計画は根底から考え方が変わり、スケールも予算も桁違いになっていきました。
当初は、本心では期待したいものより慎ましい計画を立てざるを得なくて悩んでいたものが、川島正次郎北海道開発庁長官(当時)に「決まってしまえばいくら金が掛かっても国は放っておけんよ!」と喝破されたことが現実となっていきます。

そして、原田市長が手元の資料から最終的に振り返ってみた関連費用は約2,071億円、最初の計画の実に約40倍もの規模になったのです。

競技施設92億円
オリンピック村と宿泊施設84億円
プレスセンター(現 青少年会館)10億円
幹線道路整備と除雪対策964億円
関連下水道施設28億円
千歳空港・丘珠空港整備31億円
地下鉄・地下街建設486億円
都心部地域暖房26億円
放送・通信施設60億円
厚生年金会館建設50億円
民間ホテルなどの建設など200億円
市庁舎建設40億円
合  計2,071億円

膨れ上がった計画と経費に対し、一部からは「最初と話が違う」、「市民はオリンピックの犠牲になっている」などいった厳しい批判を受け、責められることにもなりました。
しかし、原田市長は弁解はしません。
むしろ「これほど大きな事業になっても市の消費的な経費、例えば運営費や宣伝費はさほどの市民負担にはならない。むしろあらゆる施設は市民の財産としての残った」と、大半の費用が札幌が都市として一段発展するための重要な投資となったという姿勢を貫きます。
確かに費用の内訳をみると、大会開催に掛かる直接の費用は180億円余りで、オリンピック関連予算全体の1割にもなりません。
費用のほとんどが、市民生活を支える基盤インフラとして将来に残る投資だったのです。

札幌冬季オリンピックから50年の時間が流れました。
その後の札幌の成長、発展を見てきた私たちの多くは、50年前の原田市長の言葉に意を唱えることはないでしょう。
砂ぼこりの道路は舗装され、上下水道が完備され、地下鉄ができ市民は冬でも便利に移動できるようになりました。
計画当初の昭和36年、60万人余りだった人口はオリンピックの2年前の昭和45年に100万人を突破し、今や200万人に届かんとしています。

「街ができる、美しい街が」
札幌オリンピックのテーマソングとして多くの市民に愛されている、トワエモアの「雪と虹のバラード」のあの有名な一節。
まさに「まちを創る」ために、まちのリーダーとしてオリンピック招致に人生を賭した原田與作市長。
今の札幌の高度に発展した街並みと、自宅の窓から見える藻岩山のまだ雪のわずかに残る姿を眺めながら、その情熱と執念に思いを馳せるゴールデンウィークとなりました。

(前編)初の立候補と失敗

立候補の経緯

IOC総会での惨敗

市長不信任案

「聖火が燃えるまで」 原田與作 元札幌市長の哲学と執念(前編)
ゴールデンウィーク!たまには少し読書でもということで、いろいろな本を読んで過ごしました。その中の一冊が、原田 與作(はらだ よさく)元札幌市長の著作。昭和51年、市長を退任されてから約5年後に出版された貴重なご著書です。アマゾンで検索して...

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