「聖火が燃えるまで」 原田與作 元札幌市長の哲学と執念(前編)

大好き札幌
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ゴールデンウィーク!
たまには少し読書でもということで、いろいろな本を読んで過ごしました。
その中の一冊が、原田 與作(はらだ よさく)元札幌市長の著作。
昭和51年、市長を退任されてから約5年後に出版された貴重なご著書です。
アマゾンで検索してもタイトル以外に表紙も情報も何も表示されません(汗)。

今は札幌市民でも原田市長のことをご存じの方はあまり居られなくなったかもしれませんが、1972(昭和47)年の冬季札幌オリンピックの招致を実現させた市長さんです。
ご著書の後半は「成果が燃えるまで」と題し、この世紀の大事業であるオリンピック招致について割かれています。
当時の札幌の事情や、オリンピック誘致への期待や意義、葛藤などが記されたとても貴重な書籍ですので、前後編に分けてご紹介したいと思います。

(文中敬称略)

私の50年 原田與作(昭和51年 北海道新聞社発行)
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(前編)初の立候補と失敗

立候補の経緯

「讃良(さがら)さん、私は今回も札幌が敗れたときはもう帰ってきません。飛行機から飛び降りて自殺する」
1966(昭和41)年4月、ローマで開かれるIOC総会に向かう機中の中で、原田與作札幌市長は当時札幌商工会議所専務理事で招致委員会事務局長の讃良 博(さがら ひろし)にこう語りました。
それも二度までも。

2年前の1964(昭和39)年1月、インスブルック(オーストリア)で開催されたIOC総会で、1968年の冬季オリンピックに立候補した札幌市は一度敗れています。
二度目のチャレンジとなるIOC総会。
負けたら命を絶つと口に出すほどの決意で、原田市長は決戦のローマへ向かいました。

実は札幌市とオリンピックとの関りはさらにこれより約30年遡ります。
1937(昭和12)年にワルシャワ(ポーランド)で開催されたIOC総会で、札幌市は1940(昭和15)年冬季オリンピック開催地として決定されています。
昭和15年が紀元2600年に当たるため、これを祝う国民的大行事としてオリンピックを招致しようということとなり、夏季の東京とともに冬季は札幌が選出される結果となったのです。
しかし、日中戦争の拡大により激動する国際情勢の中で、1938(昭和13)年、日本はオリンピック辞退を決断。
幻の札幌オリンピックとなったのです。

それから約20年の時を経た昭和30年代に入って、第二次世界大戦の敗戦の傷跡から少しずつ立ち直りつつあった札幌で、再びオリンピック招致の声が上がり始めます。
この頃、東京では1964(昭和39)年の夏季オリンピック招致を目指して再び立候補に動いており、当時助役であった原田市長にも安井知事(当時)から「一緒にやろう!」と誘いがあったそうです。

1957(昭和32)年には札幌市議会で冬季オリンピックを誘致する意見書が満場一致で可決。
その後、昭和34年に市長になった原田市長は、IOC委員だった竹田恒徳からの勧めや道内のスポーツ関連団体等からの要請などを受けます。
折しも札幌市最初の10か年の「市総合建設計画」を発表し、その強力な推進力となるものを模索していた原田市長は、招致の検討を始めます。

開催費用に関する資料も乏しい中で、既存施設を極力使用することにして昭和36年初頭に試算した開催経費は約51億3千万円、うち市の負担区分が約12億2千万というものでした。
当時の札幌市の財政規模が約100億円だったことからみても無謀とは言われないだろうと判断し、市議会への根回しを始めます。

しかし、4年前に誘致の意見書を満場一致で決議している市議会ですが、社会党、共産党が反対姿勢を見せたために調整は難航。
厳しい議会論議を経て、1961(昭和36)年3月、立候補決議案は市議会で可決されます。

次いで国内手続きに移りますが、これもなかなか前に進みません。
当時、政府は既に開催が決まっていた東京オリンピックの準備が思うように進まず、また巨額の経費が必要となっていたため、札幌の立候補は新たな金の掛かる厄介ごとと映ったようです。

そのため、国内的には極力少ない金額の慎ましい財政計画を立てるざるを得ない状況であり、一方で札幌としては冬季の国立競技場誘致やオリンピックを契機にしたインフラ整備などを期待しており、国からできるだけ多くの補助を引き出したいところ。
また、外国に向けては素晴らしい施設や環境をアピールもしなければならず、市当局は難しい調整が続きます。

こういった苦しい事情の中で悩んでいた市長を一喝したのが川島正次郎北海道開発庁長官。
「君!決まってしまえばいくら金が掛かっても国は放っておけんよ!」
この言葉に励まされ札幌市はとにもかくにも財政計画を作成し、1963(昭和38)年1月、閣議での了承までこぎつけます。

しかし、今度はオリンピック所管の文部省から、この財政計画以上に国費の要請はしないという「覚書」の提出を求められます。
計画はあくまで計画であって、5年後の開催までには不確定要素があまりにも多く支出額を確定させるようなことができるはずありません。
怒った篠田自治大臣をはじめとする北海道代議士会がこの覚書騒動を「つぶし」てようやく国内手続きに目途がつきました。

東京2020の際にも計画を大幅に上回った開催経費の負担を巡り、国と東京都でし烈な駆け引きが繰り広げられ、未だ決着が見られないようでありますが、当時も費用負担の問題はシビアだったのですね。

こうして多くの曲折を経て、1968(昭和43)年冬季オリンピックへの立候補が決まり、川島正次郎長官を団長とする「オリンピック札幌招致委員会」による対外招致活動が始まりました。

IOC総会での惨敗

1964(昭和39)年、原田市長を団長とする20名の招致団がオーストリアのインスブルックのIOC総会に臨みました。
国内手続きを終えられたのがようやく前年。対外招致活動に充てられたのはわずかに1年という極めて短い期間でした。
それでも川島会長をトップとする招致委員会の必死の活動もあって、かなりの希望と手応えを持って現地入りしたようです。

立候補地は以下の6都市。
グルノーブル(フランス)
カルガリー(カナダ)
ラハチ(フィンランド)
札幌(日本)
オスロ(ノルウェー)
レークプラシッド(アメリカ)

さあ、開催の栄冠を勝ち得たのはどの都市だと思いますか?
1972年札幌オリンピックの前の開催地ですよ。でも意外と知らないですよね。

1回目、2回目の投票で候補地がふるい落とされ、決戦投票はグルノーブルとカルガリー。
これを27対24で制したグルノーブルが1968年オリンピック開催地となりました。

札幌はまさかの1回目での敗退。わずか6票という厳しい結果で終わったのです。

招致活動期間わずか1年の厳しい情勢ながらも、必死の追い上げもあって「ある程度の希望」を持てるほどに手ごたえを感じていた原田市長はじめ招致団一行にとっては「意外な結果」でありました。

市長不信任案

失意のうちに帰国した原田市長を待っていたのは、「問い詰めるような冷酷さ」に満ちた報道陣の質問と議会の厳しい姿勢でありました。
帰国からわずか5日後の2月10日臨時市議会でなされた質問は、「敗戦の全責任を負い、悲痛な気持でいた私(原田市長)にとって、忘れがたい内容のもの」でありました。

特に、昭和32年の誘致の意見書を満場一致で可決しながら36年の立候補決議案には反対した社会党、共産党は、質問というよりは詰問といえる内容の質問を浴びせます。
社会党からは「原田市長が責任を痛感して、インスブルックから亡命するのではないかと心配した」、「まさしく『死者に鞭打つな』のそれであろうと感じている」などの皮肉に満ちた前置きに続き、「(再立候補は)あまりにも軽率なことといわざるを得ない」との発言もなされます。

そして質疑が終了した後、社会党議員全員にょる市長不信任案が提出されたのです。
札幌市政始まって以来初めての不信任案です。
不信任案の議案説明は、原田市長にとっては「礼儀もわきまえない、悪意に満ちた感情論」と感じられるもので、共産党が反対討論で「『一般市民の考え方からして敗れてほっとした』と述べた共産党の方がむしろすっきりした感じを与えた」のとは対照的でありました。

この不信任案は反対多数で否決されますが、この段階ではまだ再立候補を表明できる状況ではなく、以下の声明を残してオリンピック招致員会は昭和39年4月11日解散されることとなりました。

声 明

一九六八年冬季オリンピック大会を北海道札幌市に招致するため、当委員会は国内、国外において懸命の努力を傾倒した。
にもかかわらず、諸般の情勢上ついにその実現を見るに至らなかったことはまことに通行の極みである。
しかしながら今回の一度の不成功をもって、この偉大なる企図を断念すべきではない。
オリンピック大会の招致は青少年の心に希望の灯を点じ、世界の平和と民族の親睦をわが郷土において具現することである。さらにまた大会の開催により北海道の開発、文化の向上を飛躍的に推進することは疑いないところである。
当委員会は、一応その与えられた任務を終了しここに解散するに当たり、可及的速やかに再びより強力なる招致委員会が結成せられ、今次の運動により確保した海外における宣伝効果を生かしつつ、一層広範かつ旺盛な挙国的熱意の上に立って、根強き招致運動を引き続き展開し必ずや所期の目的を達成するであろうことを確信するものである。
今次の活動に対する各方面の絶大なるご協力に満腔の謝意を表するとともに、ここに所信を披瀝し、声明する。

昭和三十九年四月十一日
第十回オリンピック冬季大会札幌招致委員会

(後編)再立候補から招致へ

再立候補へ

総会の模様

招致決定後の札幌

「聖火が燃えるまで」 原田與作 元札幌市長の哲学と執念(後編)
前回に引き続き、ゴールデンウィークに読んだ、原田 與作(はらだ よさく)元札幌市長の著作について、その内容を少しご紹介したいと思います。昭和51年、市長を退任されてから約5年後に出版された貴重なご著書です。アマゾンで検索してもタイ...

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