前回、「一隅」という言葉について、少し違った角度から考えてみました。
自分が受け持つ一つの場所。
それが家庭であれ、職場であれ、地域であれ、そこに灯をともすことが、やがて千里を照らす光になるのではないか、と。
ところで、ここで一つ、考えてみたいことがあります。
ボクたちは、社会全体を見ようとするとき、つい高いところから見渡そうとします。
全体像を把握する
大局的に考える
俯瞰する
どれも大切なことです。
けれど、高いところから見渡すだけでは、見えてこないものもあるのではないでしょうか。
ある人が日々感じている、ほんの小さな不便や心配。
その人にとっては切実な問題であっても、少し離れた場所から見れば、数ある問題の一つにすぎないかもしれません。
そして、その場所に立ち、同じ目線に身を置かなければ、見えてこないものもある。
なぜその不便、心配が生まれているのか。
そこに目を凝らしていくと、その人の営みや事情が見えてくる。
それらを通して周りの営みや事情が見えてくる。
そして関わりが見えてくる。
さらにその先には、制度や仕組み、社会の成り立ちまで見えてくることがあります。
一つの問題は、決して一つだけで存在しているわけではない。
だから、誰かが一隅を照らそうとすれば、おのずと隣の一隅にも目が向いていく。
自分のいる場所だけを明るくすれば、それでよいというわけでもない。
一隅に灯をともせば、その光は、隣にあるものの姿をも浮かび上がらせる。
そう考えると、一隅を照らすことと、社会全体を考えることは、決して相反するものではありません。
むしろ、表裏一体なのかもしれません。
遠くから全体を眺めるだけでなく、足元にある一隅をじっと見つめる。
そこから、隣の一隅も見えてくる。
そして、さらにその向こうへ。
そんなふうに視線を広げていくことで、見えてくる社会の姿もあるように思います。
一隅は、社会の片隅ではなく、社会そのものへの入口になっている。
つまり、「一隅を照らす」ことは、「世を照らす」こと。
そして、その一隅を照らすのは、最澄上人が「国の宝」と呼んだ、道心を持つ人々です。
「忘己利他」
自分の持てる力を、他者のためにも役立てようとする。
そんな一人ひとりの灯火が、互いを照らし、共鳴し合いながら、社会を形づくっていく。
さて、ボクが暮らす札幌も、無数の一隅が集まってできています。
市民一人ひとり。
彼ら、彼女らが営む、それぞれの家庭。
そして、地域のコミュニティ。
仕事があり
学びがあり
出会いがあり
悩みがあり
喜びがあり
希望があり
そして、未来がある。
では、そんな一隅から「まちづくり」を考えてみたら、何が見えてくるのでしょうか。
次回は、いよいよそんな話を。
ときを超え こころの法灯 今日の月
【シリーズ「一隅を照らす」】




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