「一隅を照らす―足元から、まちの構造を考える」②「国の宝」とは、人だった

ESSAY|人と社会
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第2話 「国の宝」とは、人だった

前回、最澄上人が残した「一隅を照らす」が「国の宝」につながっていることに触れました。
「国の宝」と聞けば、私たちは何を思い浮かべるでしょう。
美しい寺院
仏像
絵画
歴史的な建物

けれど最澄上人が「国宝」という言葉で語ったのは、物ではなく「人」でした。
これは、1200年以上前の言葉として考えると、とても興味深い。
しかも、その人とは、権力のある人でも、富を持つ人でもありません。

道心を持つ人

「一隅を照らす」が記されている『山家学生式』には、
「能く行い能く言う」者を国の宝とするくだりがあります。
考えるだけでもない。
語るだけでもない。
実際に行う。
上人が人間に求めたものには、そんな実践性がありました。

さらに、その先はこう続きます。

道心あるの仏子
西には菩薩と称し
東には君子と称す
悪事を己に向かえ
好事を他に与え
己を忘れて他を利するは
慈悲の極みなり

「忘己利他」、つまり、「己れを忘れて他を利するは慈悲の極みなり」、
という有名な考え方が出てきます。
自分の利益だけではなく、他者のために行動する。

そこまで読んで、「一隅を照らす」という言葉を、これまで少し小さく理解していたのではないかと思いました。
一人で静かに善いことをする。
もちろん、それも尊い。

語られているのは「国宝」。
上人が見ていたのは、その先にある社会だったのではないか。
社会は制度だけでできているわけではありません。
そこに暮らす人、働く人、誰かのために動く人。
そんな無数の人によって、社会は支えられています。
そして、その一人一人に心がある。
愛もあれば、煩悩もある。

一隅を照らす人が、一人いる。
また別の一隅にも、一人いる。
その灯が無数にあれば、やがて社会そのものが明るくなる。

「国の宝とは人である」

1200年以上前に語られたこの言葉が、今も古びて聞こえないのはなぜでしょう。
むしろ、不安や不信、争いで混迷を深めつつある今の時代だからこそ、
この言葉について、もう少し考えてみる価値があるように思います。

そして、窓の外は突然の大雨。
ずぶ濡れの息子からSOSコールが(笑)

大雨に 憂うこころと 娑婆の影

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