第3話 鐘は一つ、音はいくつ
「あの鐘の音を聞け、鐘は一つだが、音はどうとも聞かれる」
『草枕』の中にそんな一節がある。
一つの鐘が鳴る。
その音を聞いて、心が安らぐ人もいれば、寂しさを覚える人もいる。
懐かしいと感じる人もいれば、ただ時刻を知らせる音として聞き流す人もいるだろう。
鐘は一つ。
けれども、聞こえる音は一つではない。
まあ、考えてみれば当たり前のことなのかもしれない。
人と人との間でも同じことが起きている。
でも、この当たり前のことが、人の場合だと簡単にそうはならない。
同じ言葉を聞いたはずなのに、受け止め方は人によってまるで違う。
そしてそれを発した人の意図とも全く違ってしまう。
そんな経験は、誰にでもあるだろう。
何気なく口にした一言が、相手を傷つけてしまう。
こちらは励ましたつもりなのに、相手には突き放されたように聞こえる。
むしろ非難されたようにさえ、心の中で響き渡る。
反対に、相手の何気ない言葉が、こちらの心にいつまでも引っ掛かることもある。
別に悪意があったわけでもないのだろうけど、こちらの心を容赦なく切りつける。
言葉そのものは、確かにそこにあった。
けれども、相手が発した言葉と、ボクが聞いた言葉は、果たして同じものだったのだろうか。
以前、そんな人と人とのすれ違いを「イノセントな不調和」と呼んだ。
悪意がなくても、音がすれ違う。
そのときは、互いに異なる世界を生きているからなのだから、そんなものだろうと考えた。
ただ、鐘の話を読んでいると、また別の視点からも気になってくる。
そもそも、音を合わせるというのは、どういうことなのだろう。
同じ鐘の音を聞いて、同じように感じることなのか。
相手が感じたことを、自分も同じように感じられるようになることなのか。
そんなことが、現実にできるのだろうか。
ボクには、どうも自信がない。
人にはそれぞれ、積み重ねてきた時間がある。
嬉しかったことも、悔しかったこともある。
忘れられない言葉もある。
同じ音が、ある人には懐かしく、別の人には悲しく響く。
それを、どちらかの聞き違いだと言うわけにもいかない。
ここで厄介なのは、他人の聞き方にはそれぞれの事情があることは理解できているのに、なぜか自分の聞き方が正しいと無意識に信じ、ジャッジしていることである。
特に、相手の言葉に腹を立てたときなどは、なおさらだ。
「そんな意味で言ったんじゃない!」
相手がそう説明しても、こちらにはそういう意味にしか聞こえない。
そうなのだから仕方がない。
むしろ、そういう意味でしか伝わらないと自覚してもらわないと都合が悪い。
さもないとこちらが間違っていることになる。
言った側には言った側の事情がある。
聞いた側には聞いた側の事情がある。
どちらにも事情があると分かっていたとしても、結局は自分の事情を優先してしまう。
そして、そうでなくては困る。
第2話で「そしてメンツ!」などと書いたが、まさにそのメンツが最前線で鉾と盾を振り回す。
それも無意識に自覚なく。
どうやら、ボク自身の鐘の音も、なかなか調律が難しいらしい。
政治の世界でも、似たようなことを感じる。
一つの政策について、同じ説明を聞いているはずなのに、ある人は期待を寄せ、別の人は不安を抱く。
丁寧に説明したつもりでも、何も説明されていないように感じる人は少なくない。
説明に耳を傾けてもらえても、響き方も受け止め方も千差万別。
反対に、市民が切実な思いを伝えているつもりでも、受け取る側にはそう聞こえるとは限らない。
どちらが正しいという前に、そもそも聞こえている音が違う。
もちろん、だから仕方がないという話ではない。
それぞれの事情を理解しようとする努力は必要なのだろう。
ただ、理解したつもりになることと、本当に理解することの間には、思っている以上に大きな隔たりがある。
そして、相手に分かってもらおうと声を大きくするほど、その隔たりが広がってしまうことさえある。
何とも皮肉なものだ。
鐘は一つでも、音はいくつもある。
ならば、無理に一つの音に揃えなくてもよいのかもしれない。
とはいえ、互いに違う音を聞いたままで、人はどこまで一緒に歩いていけるのだろう。
分かり合えないことを認めるのと、分かり合うことを諦めるのとは、やはり違うような気もする。
この辺りになると、また堂々巡りである。
相手の聞いている音を、自分も同じように聞こうとするより、まずは、自分には聞こえない音があるのだと知るだけでも、何か違ってくるのだろうか。
知ったところで、相手の聞いている音を認められなければ何も変わらないのか。
相手を理解したつもりになるための、単なる新しい屁理屈をこねているだけか。
困ったものだ。
今日もどこかで鐘が鳴る。
聞こえる鐘もあるし、聞こえない鐘もある。
よせばいいのに、いちいち耳を澄ませてしまうんだろう。
さて、今度はどんな音に聞こえるのだろうか。
気が付いたら、外は初雪。
鐘の音など打ち消すような暴風で、初雪らしい趣なんて全くないな(笑)。
初雪や 木の葉をさらう 風の音

【シリーズ「ふたつの世界を渡る」】




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