第2話 半歩離れて見る
『草枕』を読んでいて、妙に心に引っ掛かった言葉がある。
「余裕のある第三者の地位」
漱石は、人の世の利害や感情から離れて物事を眺める立場をさして、そんな表現をしている。
主人公の画工は、俗世の煩わしさから逃れ、山の中へと入っていく。
そこで目指すのは、喜怒哀楽に振り回されることなく、人間や風景を一幅の絵のように眺める「非人情」の世界だ。
人情がない、という意味ではない。
人情に巻き込まれずに、人の世を眺めようとする。
そんな場所を求めてのことだろう。
何とも贅沢な立ち位置である。
ボクも、できることならそんな場所に立ってみたい。
もっとも、山の中に入ったくらいで、そう簡単に人情から解放されるとも思えないが。
人と人との間に起こる出来事を、少し離れて眺められるのなら、それぞれの事情も少しは冷静に見えてくるかもしれない。
なぜ、あの人はあんなことを言うのか。
なぜ、こちらの人はあれほど腹を立てるのか。
互いの立場を想像してみると、どちらにもそれなりの理屈がある。
正しいかどうかは別として、そう考えるに至った事情は、それなりに理解できるような気がする。
ところが、そこに自分が登場すると、途端にそうはいかなくなる。
自分の言い分がある。
しかも、そう主張する根拠も権利もある(と思っている)。
そしてメンツ!
とにかく簡単に譲れるものではない。
気がつけば、自分の正しさを説明することに躍起になっている。
それでも相手のことを理解しているつもりになっている。
なかなか厄介なものである。
以前、人と人との間に生じる、悪意のないすれ違いを「イノセントな不調和」と呼んだ。
そのとき考えていたのは、互いに異なる人間がどこまで分かり合えるのかということだった。
そして、さらに思う。
相手をどう理解するかの前に、自分自身の姿をどこまで見ることができているのだろう。
相手の言葉に傷ついた自分。
自分の思いが伝わらず、腹を立てた自分。
そこには、相手を理解したいという気持ちの前に、相手に理解してほしいという思いが先に立つ。
もちろん、それが悪いということではない。
ただ、その願いが強くなるほど、目の前の相手のことが見えにくくなってくる。
とかくに人間というものは愚かで面倒くさい。
少なくとも、ボクの場合は(笑)。
人の世を少し離れて眺めたい。
そう思いながら、結局はその人の世のことに縛られ、振り回されている。
しかも、政治という世界に身を置いていながらだから、我ながら情けない話である。
離れるどころか、利害や感情の渦中に引きずり込まれて、憤り、傷つく。
そして、人の世を達観できているような涼しい顔を演出する
漱石の「余裕のある第三者」は、芸術の世界を見いだすための立場だった。
別に人生の処世術として登場するわけではない。
それが、ボクには何とも気になる言葉として残る。
人の世から離れるのではなく、人の世に身を置いたまま、少しだけ距離を取ってみる。
相手を眺めるだけではなく、自分自身も眺めてみる。
そんなことができれば、何かが少し変わるのだろうか。
いや、何かを変えようとすること自体が、また別の欲や執着なのかもしれない。
そう考え始めると、きりがない。
結局、ボクには「余裕のある第三者」など、まだまだ遠い存在らしい。
でも、せめて半歩くらい…。
半歩くらいでも自分自身から少し離れて眺められたら、案外面白いかもしれない。
もっとも、半歩離れたつもりで、また自分の正しさを確かめているだけかもしれない。
そう思うと、少し可笑しくなった。
どうやら、眺める対象には当分困らなさそうだ。
何しろ、一番手近なところに、実に厄介な人間が一人いるのだから。
夜寒かな ひげ剃る顔は 湯気の陰
【シリーズ「ふたつの世界を渡る」】


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