第1話 一隅を照らす
先日、ある文章を読んでいて、ふと目に留まった言葉がありました。
「一隅を照らす」
天台宗を開いた最澄上人に由来する言葉として、広く知られています。
一隅とは、片隅のこと。
自分が置かれたその場所で、自分のできることをする。
小さくても、そこに灯をともす。
そんな意味として、以前からこの言葉を知ってはいました。
若い頃なら、この言葉はそれほど気に留まらなかったかもしれません。
むしろ、たった一度の人生、何か大きなことを成し遂げたい。
そんな思いを持っている若い人たちにとっては、なんとなく地味で貧乏くさい印象を与えるかもしれません。
けれど、多少年齢を重ねた今改めてこの言葉に触れると、少し違った景色が見えてきます。
大きなことを考えることと、足元を見ることは、決して反対ではない。
むしろ、足元をよく見ることからしか、見えてこないものがあるのではないか。
そんなふうに自然に思える。
たとえば、ボクが力を注いできた、冬の札幌のまちづくり。
一本の生活道路に雪が積もる。
車がすれ違えない。
高齢者が歩きにくい。
子どもの通学が危ない。
どれもそれだけを見れば、ごく身近な地域の日常の実態です。
しかし、市民が冬の暮らしに感じる大きな不満も、突き詰めれば、こうした一つ一つの不便の積み重ねです。
市役所からみたら「雪対策事業」なのかもしれませんが、
一人一人の市民にとっては、目の前に暗闇がある。
そこにしっかりと光を当てることは、大きな事業全体を考えるうえで不可欠です。
さらに、なぜ毎年同じことが起きるのかと考えていくと、
人手不足、除排雪の仕組み、予算、雪を運ぶ場所、道路や市街地のつくり方まで、
さまざまな問題につながっていきます。
一隅をじっと見つめていると、その向こうに社会の構造が見えてくる。
そう考えると、「一隅を照らす」とは、決して小さくまとまることではない。
自分の足元にある小さな問題を見過ごさず、そこから、もっと大きな社会のあり方を考えていく。
政治の仕事に携わってきた今、ボクはこの言葉を、そんなふうにも受け止めています。
ところで、「一隅を照らす」という言葉を改めて調べてみると、最澄上人がこの言葉に込めた意味は、ボクが漠然と理解していたものより、もう少し深いようです。
上人は、
「国の宝とは何か。宝とは道心なり」
と説いたといいます。
「一隅」という小さな場所の話をしていたはずなのに、
そこに「国の宝」という、ずいぶん大きな言葉が出てくる。
一隅と、社会。
小さな日常と、国やまちのあり方。
どうやら、この二つは思っていた以上につながっているようです。
では、「一隅を照らす」とは、本来どんな意味を持つ言葉なのか。
そして、それを今の札幌に置き換えてみたら、何が見えてくるのか。
このシリーズでは5回にわたって、そんなことを考えてみたいと思います。
秋灯や 路地の向こうに 街ひらく

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