「とかくに人の世は住みにくい。」
前回、久しぶりに読み始めた夏目漱石の「草枕」に触発されて、
住みにくい「人の世」というものを振り返っている。
ボクは、現在、世間一般では「政治家」と分類される立場にいる。
でも、政治家というのは、もう少し政治家に向いている人がなるものだと思っていた。
人前に出ることが好きで、自分の考えに自信があって、批判されればむしろ元気になり、選挙になれば朝から晩まで自分の名前を連呼しても苦にならない。
少なくとも、ボクはそういうタイプの人間ではない。
なのに、気がつけばそれなりに長いこと政治家をやっている。
考えてみれば、人生の始まりから少しおかしかった。
ボクは政治家の多い家に生まれた。
父は政治家
伯父も政治家
従兄弟も政治家
国会議員、大臣、そして総理大臣という極みを目指した人もいる。
そんな人たちと、その周りにいた政治家たちを身近に見ながら育った。
だから政治家になったのだろう、と言われれば、
言っている側の一般的な意味合いとは違うかもしれないが、間違いではないのかもしれない。
人生というものは、あとから説明すると妙に筋が通ってしまう。
でも、そんな単純なストーリーではなかった。
子どもの頃から「将来は政治家」と意識して、一歩一歩進んできた――。
なんていうありきたりの物語では、少なくともない。
むしろ真逆だ。
父はボクが中学に上がるときに政治家になった。
本人は確かに苦労しただろう。
でも母の苦労は、少なくとも子どもの目から見たらその比じゃない。
選挙区はそれまで住んでいた札幌から遠く離れた地域。
ボクは希望して札幌に残ったが、まだ小学生低学年の妹は転校を余儀なくされた。
そこで、毎日人が出入りするプライバシーなんかない生活。
もちろん父も母も朝から晩までほとんど留守。
幼い妹はどんなにか心細かったろう。
政治家の家族というのは、本人が選挙に出たわけでもないのに、いつの間にか政治の中で暮らすことになる。
政治が身近だったからこそ、普通なら見ることのないその背景の現実を、早くから見ていた。
人が集まってくること。
人が離れていくこと。
期待されること。
怒りの的となること。
そして、忘れられること。
人前から見える部分と、そこからは見えない現実と日常がある。
別に政治家に限った話でもなく、
どんな仕事にも、外から見える姿と、その人や家族にしか分からない時間があるのだろうけど。
だからなのか、政治家になりたいとは思わなかった。
政治家じゃない方が、自分らしく生きられる。
そんなふうに思っていた。
それでも、長く社会の中で仕事をし、いろいろな出来事を見ているうちに、少しずつ変わっていった。
「これはおかしいんじゃないか」
「もう少し違うやり方があるんじゃないか」
そんなことが気になるようになった。
そして、黙っていられなくなった。
気がつけば、自分も政治の世界にいた。
ただ、ときどき不思議に思う。
そもそもボクは、自分でこの人生を選んだのだろうか。
政治家の家に生まれなかったら、何をしていただろう。
まったく違う仕事をしていたのか。
それとも結局、人や社会のことが気になって、似たようなところへたどり着いたのか。
もちろん、答えはない。
人生は比較実験ができない。
選ばなかった方の人生を生きてみることはできないのだから。
ただ一つ確かなのは、政治家にはあまり向いていない性格だと思っている人間が、今日も政治家をやっているということだ。
もちろん、性格だけでやるものではない。
銀行、行政、教育機関など、それなりの経験は積んでは来ているつもりだ。
だから、政治家としてやってみたい、実現したいことは、青臭いほど持っていた。
政治家という生き方には向いていない。
でも、政治家としてやりたいことはあった。
どうやら、その二つは別の話らしい。
向いていないと思っていたのに結局長く続けられたのだから、実は向いているのではないか。
そんな気もするし……、
いや、やっぱり向いていない気もする。
そんなことを考えながら、自分なりにできることをやっている。
そして、気がつけば、まだここにいる…。
今のところ、それ以上にうまい説明は見つかっていない。
秋の月 藻岩はしづか カメラ持つ影




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