前回、「一隅を照らす」という最澄上人の言葉から、国の宝は人であり、その先に見ていた社会である、という考察をしました。
ここで、少し面白い話があります。
「一隅を照らす」は、現存する上人の自筆では「照千一隅」と書かれており、その読み方や意味をめぐって議論があります。
その背景には、中国の故事があります。
魏王が、光り輝く大きな珠を十枚も持っていることを「国の宝」として誇ったのに対し、斉の威王は、自分の国の宝はそうした宝物ではない、と答えます。
自分には、それぞれ「一隅」を守る優れた臣下たちがいる。
その働きは「千里を照らす」。
そうした人材こそが、国の宝なのだ、と。
最澄上人の「照千一隅」は、この故事を踏まえた言葉とされています。
一方、日本では「照于一隅(しょうういちぐう)」として、「一隅を照らす」と読む解釈も広く知られ、自分のいる場所で地道に努力し、周囲を照らす人こそ尊い、という意味で親しまれてきました。
仏教研究者でもないボクが、「千」なのか「于」なのかを論じるつもりはありません。
ただ、このことを知って、「一隅」という言葉を少し違った角度から考えてみました。
一隅とは、本当に「人目につかない片隅」なのだろうか。
「一隅を照らす」という言葉から、私たちはどこか慎ましい人物像を思い浮かべるのではないでしょうか。
目立たなくてもいい
評価されなくてもいい
自分の持ち場で頑張ればいい
それは美しい生き方です。
でも、「一隅」を「自分が受け持つ一つの場所」と考えてみたらどうでしょう。
家庭という一隅
職場という一隅
地域という一隅
学校という一隅
そして「まち」という一隅
一人ひとりが、それぞれの場所に責任を持つ
しかも、自分の場所だけ良ければいいのではなく、隣の一隅ともつながっている。
そう考えると、「一隅を照らす」ことは、内向きの姿勢ではなく、
むしろ「千里の先まで光をあてる」礎なのではないかと思えます。
一人ひとりが社会を構成する主体である。
そんな意味にまで広がっていくように、私には思えるのです。
「千」と「于」。
形は似ているけれど、意味合いは違う二つの漢字。
けれど、そこから読み取られてきた二つの「一隅」は、不思議なほど響き合っているようにも思えます。
自分のいる場所を照らす。
その光が、やがて遠くまで届いていく。
そう考えると、「一隅」とは決して小さな世界ではありません。
むしろ、社会という大きな世界へつながる入口なのかもしれない。
そんなことを考えているうちに、ボクの頭の中では、いつの間にか「一隅」と「まちづくり」がつながっていました。
次回以降、そんな話を少し。
秋灯や 窓それぞれに 人の暮れ
【シリーズ「一隅を照らす」】



コメント