言葉の行方と罪の形 コロナとオリンピックのドタバタから考える  

ESSAY|人と社会
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6月3日、新型コロナウイルス感染症対策専門家会議の尾身会長は、国会で「本来はパンデミックのなかで開催するということが普通でない」「開催するのであれば、政府もオリンピック委員会も厳しい責任を果たすべき」、さらには「何のためにやるのか、しっかりと明言するのが重要」とコロナの下でのオリンピック開催に対して、厳しい見解を示しました。

この発言に対して、田村憲久厚生労働大臣からは「自主的なご研究のご成果の発表だと思いますので、そういう形で受け取らせていただく」という言葉が発せられました。

また、丸川珠代からは「我々はスポーツの持つ力を信じて今までやってきた。全く別の地平から見てきた言葉をそのまま言ってもなかなか通じづらいというのは私の実感」という言葉も発せられました。

これら閣僚から発せられた、尾身会長の姿勢を否定するかのような一連の反駁が、ここ数日大きな議論を呼んでいます。

そこでこれを機会に、我々が何気なく発する「言葉」というものが、いとも自然に罪深いものとなっていることについて考えてみたいと思います。

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悪口と万引き ~ 意識しない悪意

いきなり失礼な質問ですが、あなたは万引きしたことがありますか?

Yes の方には失礼をいたしました。
でも、読者の大半の方はNo なんじゃないかと思います。

では、人の悪口を言ったことはありますか?

Yes の方がほとんどでしょう。
No という方もいる? 本当ですか???

会社の上司をネタにおいしいお酒を飲んだことはありませんか?
結婚当初のように自分を大事にしてくれなくなった奥さん(旦那さん)をネタに仲間うちで盛り上がったことはありませんか?
テレビやニュースを見て政治家や芸能人を罵ったりしていませんか?

では、次に、万引きと悪口だったらどちらの方が罪深いと思いますか?

万引きなら例外なく窃盗罪。罪ですね。捕まりますね。

一方の悪口は?

侮辱罪とか特別なケースもありますが、大概の場合はそのまま消えてしまいます。
笑いや不快な気持を残したりもしながらも、捕まりはしませんね。

でも、悪口を言われた人が自ら命を絶ってしまうこともあります。
いじめで失われる幼い命。
大人だって、悪口や批判で深刻な影響を受け、職を失ったり、家庭が崩壊したり、最悪命にかかわることだってあります。
昨年は芸能界で活躍していた木村花さんがネットの誹謗中傷で尊い命を絶ち、その後大きな議論を引き起こしていますね。

ですから、悪口や人の批判が法的な犯罪より罪が軽いとは言い難いのです。

悪口や批判がもたらし得る罪には、大きく二つの面があるように思えます。

①その悪影響が思った以上に深刻となりうること
このことは、わかりやすいでしょう。
いじめやネットの誹謗中傷はもちろんのこと、誰でも少なからず自分の発した言葉で予想以上に人を傷つけてしまった経験はおありでしょう。

②当の本人が悪意を意識していないこと
実はこちらが意外と深刻なんです。
私たちが人を批判したり、意図ぜずに人を傷つけてしまったりしたとき、大抵の場合、本人には悪意はありません。
それどころか正義感が源になっているも少なくありません。

では、冒頭の大臣たちの発言から②の面を考えてみましょう。

田村厚労大臣、丸川五輪大臣が発した言葉に潜む意識とその影響

まず、「自主的なご研究のご成果の発表だと思いますので、そういう形で受け取らせていただく」という田村大臣の発言についてです。

尾身会長は、冒頭の発言を国会の質疑の中で行っています。
国会で意見を求められたのは、政府が設置している「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議(以下、専門家会議)」の会長だからです。
国会で求められた意見は、当然専門家会議会長の立場としての意見であり、一研究者としての見解を求められたものではないことは明確です。

当然、尾身先生もそのお立場を意識して発言されているはずです。一年以上尾身先生のお立ち振る舞いを見てきて、そういうわきまえはきっちりとなさりながら発言する方だと確信します。

尾身会長の発言内容自体が適切かどうかということについては、立場や価値観などから見方が変わり得るでしょうから、ここではあえて言及を控えたいと思います。

ただ、政府が設置している専門家会議のトップが国会という最も厳格に公的な場で行った発言を、閣僚が「自主的なご研究のご成果の発表」というのは、無礼を通り越し、非見識かつ無責任であると言わざるを得ません。「尾身会長が公的な場で個人見解を述べたるという不適切で不見識な行為をした」と個人批判しているのと同じです。
このような個人批判を、その任命について責任のある閣僚が発したのですから、批判を超えて個人的な不快感が相当含まれているものと受け止められます。

次に丸川大臣の「全く別の地平から見てきた言葉をそのまま言ってもなかなか通じづらいというのは私の実感」という発言ですが、違和感があるのは「全く別の地平から見てきた」というくだり。「尾身会長は私(たち?)と違うものの見方をしている人」ということでしょうか?

もちろんコロナのような大きな脅威ですから、感染拡大対策の面、経済活動を守るという面、資金生活への影響の面などなど、多様な側面から見ていかなくてはならないことはいうまでもなく、オリンピックもまたそういう難しい課題であり、担当大臣としてご苦労されていることには敬意を表したいと思います。

しかし、尾身会長もそれは同じでしょう。
感染症対策の専門家ではありますが、常に経済活動や市民生活への影響などへの意見や配慮も求められ、時には対策の影響を受けている人たちの恨みすら買いかねない。
そんな重圧の中で、1年以上任務を全うされてきています。

その尾身会長の発言を「全く別の地平から見てきた言葉」とするのは、そういう「複雑な側面を知らない一面的な発言」と言っているようなものであり、個人批判を多分に含んでいると受け止めざるを得ません。
これも、任命責任の一翼を担う閣僚が発したものですから、通常の批判よりは随分と意味合いの違うものと言えましょう。

しかしながら、両大臣ともオリンピック開催が日本にとって重要なんだというお考え(またはそう言わざるを得ない立場)から、国益に照らして正しい発言をしたと思っておられるでしょうし、ましてや尾身会長を批判したり貶める意図ではなかったでしょう。

しかし、悪意なく口から出た言葉は実際に多くの人を不快にしており、政治不信を招き、国民のオリンピック賛否議論に余計な油を注ぎ、対立を煽ることにもなりかねません。
尾身会長にとっても、厳しい感染対策が一部の国民からは反感も買っているようであり、こういった感情的な言葉がリスクを増長することにだってなりかねません。

無自覚に発せられた悪意ある言葉は、時に凶暴な刃となって誰かに襲い掛かることがあるのです。

自分を見る目と他人を見る目

では、田村大臣や丸川大臣に対して、発言を批判したり政治家としての資質や人間性を貶めるようなことを申し上げたらどうお感じになるでしょう?

おそらくご不快に感じられるでしょう。言葉に悪意を感じるでしょう。
でも、ご自身が尾身会長を貶めた発言は全く自然に正当化している。

私たちの日常でもよくあります。
子どもに「テレビばかり見るな!」と言って、自分は同じテレビで経済番組を見て子どもに不公平だと文句を言われる。
「おやつばかり食べるな!」と口は言って、手にはビールを持っている。

私たち人間は、自分のしていることはそれほど悪いとは思わない一方で、他人のしている同じようなことには厳しい視線を向けてジャッジする。
二つの物差しを都合よく使い分ける、私たちはそういう存在です。

そして、罪深いことに自分がそうであることに気付かない。

こうやって敵意や妬み、優越感、劣等感、へつらい、虚栄心、後悔、場合によっては愛情などなどいろいろな感情が、悪意ある「言霊」となって口から出てきて、ひとを傷つける刃となる。

これは何も最近の傾向ではありません。古今東西人間はこういうもので、多くの人が悩み、思索を積み重ねてきました。
キリスト教の根源テーマである「原罪」も、聖書やいろいろな書物を読むと、こういう人間が自然に持つ性向のことにも思えます。

私たちの口には常に不節操で悪意ある刃が隠されている。
このことをできるだけ意識して、自分も人と向き合っていきたいものだと、コロナとオリンピックのドタバタを見て改めて感じる今日この頃です。

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