前回、「人間なんてそんなものだ」と書いた。
書いてしまった。
人間の動機なんて、立派な志とささやかな虚栄心が入り混じっているものだし、能力のある人が必ず評価されるわけでもない。
人間とはそもそも、そんなに合理的でも公平でもない。
長く実社会にいれば、そんなことくらい分かってくる。
……はずなのだが。
人間なんてそんなものだ、と言った舌の根も乾かぬうちに、身近な人のちょっとした一言には妙に引っ掛かったりする。
我ながら、まるで修行が足りない(笑)。
遠い人との意見の違いなら、案外処理できる。
立場が違う
持っている情報が違う
見えている景色が違う
そう思えば、それほど不思議なことでもない。
ところが、相手が近くなると少し事情が変わる。
遠くから飛んでくる大きな石は避けられるのに、すぐそばに落ちた小石につまずく。
これは何なのだろう。
たぶん、期待なのだと思う。
近しい人には、どこかで期待している。
これくらいは分かってくれるだろう。
言葉にしなくとも、ある程度伝わるだろう。
ははは、書いてみると、ずいぶん勝手な話である。
相手だって同じように、
「これくらい分かってくれるだろう」
と思っているのかもしれない。
そう考えると、どちらが正しいという話でもなくなる。
だから余計に厄介だ。
最初の文章で、悪意もないのに人と人が噛み合わない状態を「イノセントな不調和」と呼んだ。
たぶん、その不調和が一番大きく響くのが、近しい人との間なのだろう。
見知らぬ人、遠い人なら、
「考え方が違いますね」
で終わる。
でも近しい人には、なかなかそれができない。
近いのだから、自分の輪郭の内側までわかっていてもらえている。
そんな錯覚を、どこかで持っているのかもしれない。
でも考えてみれば、近しい人にも当然、その人の輪郭がある。
長く一緒にいる人にもある。
親にもある。
子どもにもある。
友人にもある。
そもそも自分が頑なに持っている(つもり)。
輪郭とは、境界でもある。
以前の投稿でそう書いた。
境界という言葉には、何となく冷たい響きがある。
でも、境界があるから別々の人間なのだ。
もし相手が完全に自分と同じように考え、自分の気持ちを十分に察し、自分の望む反応だけを返してくるなら――。
それはそれで、かなり気味が悪い(笑)。
愛情と理解は、どうやら同じものではない。
大切に思っているから、すべて分かるわけではない。
分かってもらえないから、大切に思われていないわけでもない。
そんなこと頭では理解できる。
それでも、分かってほしい。
こう書いてくると、欲しいのは理解ではなく愛なのかとも思えてくる。
ここが人間の面倒なところなのだろう。
いや、人間一般の話にしてしまっては乱暴かもしれないが、
少なくとも、ボクはそうなんだろうなと思える。
「分かってほしい」と思わなくなれば、ずいぶん楽なのかもしれない。
でも、それができるくらいなら、そもそもこんな文章を書いていない。
人間なんてそんなものだ。
そう書いた舌の根は、まだ乾いていない。
飢え渇き 流す麦酒に とき忘れ

【シリーズ「とかくに人の世は住みにくい」】




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